AFO顛末記
私は大阪芸術大学在学中に漫画好きの仲間と「未確認マンガ集団」を創設し1975年に漫画同人誌「AFO」を創刊しました。同誌は第4号まで発行しました。メンバーは創設当初の4名から8名ほどになりました。しかし、集団はメンバーの卒業により自然消滅してしまいました。数年後、私が編集者になり文芸作品中心のコピー誌「AFO」を復刊したり文芸部ブログを始めました。メンバーと再連絡を取り合いました。大阪芸大の後輩には交流のあった「グループCAS」があり「CAS」は現在も大阪芸大で存続していて、漫画家やアニメーターや映画監督を輩出しています。その生い立ちはテレビ東京で「アオイホノオ」という青春ドラマになりました。
…で、ぶっちゃけた話「AFO」各メンバーへの私の思い込みを書いてみようと思います。
灰山敗次(はいやまはいじ)氏
彼は非常に奥の深い個性的なストーリー漫画が描ける人物で、面白い推理小説も書けるすごい才能を持っていました。並外れた読書家、映画鑑賞家であり、それらの幅広い知識から独創的な作品が生まれたようです。彼は芸大卒業後はサラリーマンになりました。創作は趣味程度に小説を書くくらいで、プロは目指しませんでした。口癖は「…俺は芸術から離れたので語る資格はない」です。…私の想像では、彼は「水木しげる」クラスの一流の漫画家になれていたと思います。もしくは「赤川次郎」クラスの推理小説家になれていたと思います。
槍なさる(やりなさる)氏
彼は荒削りのタッチのギャグ漫画が描ける人物で、推理小説も書いていました。作品の1つは推理小説誌「幻影城」の新人賞で入選しています。彼は芸大卒業後は機械工場で働いて定年まで勤めました。彼の漫画の作風については、私は正直、芸大当時はさほど印象は持たなかったのですが、プロとして活動して行くうちに「…こういうジャンルもあるのだ」と気づいて、評価するようになり、プロの絵描きを目指すように勧めました。しかし、彼は「…プロのレベルは自分には無理」ということで遠慮しました。…私の想像では、彼は一流の風刺漫画家になれていたと思います。
北村和則(きたむらかずのり)氏
彼は芸大卒業後、唯一、上京して漫画家を目指した人物です。漫画家のアシスタントをしたり、朝日小学生新聞の連載をしたり「ケンちゃんラーメン」のおまけシールデザインなどを手掛けて念願のプロの漫画家になれました。でも、漫画からアニメに進路変更してどん底になりました。見栄を張る性格なのですよね。大衆よりもマニア受け狙いが仇。彼は確かに絵は大変上手ですけれど、マニア受けまでの個性はないのです。「AFO」に対する彼の感覚は「関東の仲間に、まだ同人(AFO)をやっているのか…?」と笑われた話が定位置みたいです。しかし、後輩の「CAS」の連中はテレビドラマ化されるくらいなので「AFO」を恥じたり、自信を持てないことが最大の欠落。落ち度である気がします。…私の想像では、彼は間違いなく日本を代表する超有名な漫画家になれていた筈です。大金持ちになれていた。
霧島じゅん(きりしまじゅん)氏
彼は芸大在学中、漫画同人誌を始めた20歳の頃に「…すでに出来上がっている」と思わせるほどの実力があったメンバーの1人でした。また、彼は確か映像学科の学生で、卒業制作で「ルール博士の風船人間」というレベルの高い8㎜映画を作っていました。彼は芸大卒業後はサラリーマンになりました。映像学科からは一流のアニメーターになっている人達が何人もいます。私は彼とはコミュニティで再会して、やり取りをしたのですが「…芸術は趣味です。プロにはなりません」という認識を聞かされてガッカリしてしまいました。でも、彼の口癖は「誰々に…負けたくない」なのですが?…この辺は「言葉の自覚」でしょうし、信用に値するかはどうかは分かりません。ただ、私の想像では、彼も辛抱すれば、超一流の漫画家やアニメーターになれていた筈です。
…こういうことでした。才能の使い道は難しいものです。各自の思い込み次第。
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