住んでいた…
…アパートです。Googleの地図「ストリートビュー」を使えば、その場所に立っているような画像を見ることが出来ます。それで時々、昔住んでいた住所などを調べて「変わったなぁ…」と懐かしんでいます。
このアパートは大阪府泉南市樽井の樽井ハイツです。南海本線樽井駅のメインストリートにあって、画像の右へ100mほど下りて行けば樽井駅でした。ハイツは6畳2間で台所が4畳半でした。家賃は確か月に45,000円だったと思います。部屋は4階でした。当時は紡績工場で働いていて、通勤に使う車は、ここから1kmほど離れた実家に置いてあり、私は毎日、自転車で取りに通っていました。実家から車に乗って出勤。仕事が終われば実家へ帰り、また自転車でハイツに戻ったのでした。紡績工場の早番の時は毎回、午前3時半頃に起きて暗い道を急いでいました。後にハイツの前の駐車場を借りることにしたので、こんな手間はかからなくなりましたが、2~3年、こんな風にしました。雨の日も風の日も遅刻せずによく通ったものだと思います。
実家に車を置いていた理由は、父母の様子が気がかりだったからでした。私は結婚して実家で妻と暮らし、2人の娘が生まれました。親と同居の生活は当初は良かったのですが、次第に母が色々と機嫌を悪くして「出て行ってくれ」みたいな成り行きになったのです。それで、私と妻と娘達4人はハイツを見つけて引っ越したのでした。この引っ越しを父も私も妻も娘達も望んではいませんでした。母だけの希望。しかし、母は1度言い出したら聞かない性格なので、仕方なく出て行ったのでした。この辺の「わがまま」にずっと困惑させられることになります。それでも、私は長男ですし、親の面倒をみるのは当たり前。毎日、父母の様子が知りたかったので、こんな面倒臭い方法を取らざるを得なかったのでした。
ただ、ハイツでの親子4人の生活は楽しかったです。長女は樽井小学校へ通うようになっていました。私の紡績工場での仕事はハードで、1日16時間労働は普通。また、社宅に入っている工員のワゴン車での送迎を任せられていた関係で、仕事を休むことは良い顔をされなかったので、決まっていたのは「休みは月に2回だけ」でした。その月に2回の休みでしたが、家族で車や電車で和歌山に近い岬公園や根来のフラワーパークなどに遊びに行きました。娘達を自転車に乗せて近所の公園へ連れて行ったり、スーパーに買い物に行きました。仕事は力仕事、肉体労働で本当にキツくてクタクタだったのですが、この頃の4人だけの暮らしは天国だったです。
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